折箱の歴史

折箱の歴史

西暦600年頃、聖徳太子が中国(当事の隋)へ遣隋使を派遣し、各種の文化を輸入された際に、朝廷に献上物を載せるにあたり、使用された木製の台が、今日の折箱の発祥といわれています。

その台物の形態を採り入れ、奈良時代から仏教の広まりとともに仏前でのお供え台として活用されていました。貴族文化の花開いた平安時代から室町時代へと時の推移に依り、多少の変化が加えられました。室町時代の末期には、杉の屋根板を使用した「割折箱」や、モミの木で作った「折箱」が用いられ、食品容器としての用途の始まリといえます。安土桃山時代になると、貴族から武士の時代へ。織田信長の家臣の記録の中に「近頃、弁当なるものを見た。小さな器の中のから、色々変わった食べ物が出てくる。」とあります。この頃から弁当のようなものが出てきたのではないかと思われます。当時の折箱は、物見湯山や戦の携行食の容器に使われている程度でまだまだ一般的ではありませんでした。これらは漆を塗り、何回も使えるようにした高級な「漆器」で、消耗品としての折箱ではありませんでした。

実用的な折箱は、商人や町人が担い手となった元禄文化が花開いた江戸時代、芝居見物や花見、紅葉狩りなどのレクリエーションの用途に、芝居小屋や料亭などを中心に普及しました。芝居の幕間に食べた折詰の弁当が、「幕の内」の語源のようです。
当時、折箱は笹折と呼ばれていました。江戸時代末期の『守貞謾稿』(1853)には、料理茶屋の項の中に笹折の記述が見られ、要約すると「京坂では、料理茶屋は客の人数に見合う量より多く料理を出してもうけようとするが、江戸では近年、会席風と名付けて、人数に見合う量より僅かに多く料理を出し、余った分は笹折に入れて、客が持ち帰れるようにする」とあります。

明治に入ると、人の大量輸送の手段として鉄道網が全国に敷設されました。それに伴い、汽車弁当が日本の各駅で販売されるようになりました。木製折箱を用いた使い捨ての弁当箱は、清潔を好む国民性と適合し、さらにその需要は広がっていきました。

このような食器の文化、それを利用した生活文化は、世界中どこをさがしても例がありません。つまり、折箱は日本独特の食文化を担ってきた日本特有の食器で、テイクアウト、ワンウェイ容器の草分けです。歴史・文化・本物・ゆとりや遊びを取り入れ、日本人の知恵が生かされたパッケージであるといえます。

現在は、折箱の素材も時代とともに変化し、木の他にプラスチックや発砲スチロール、紙などの素材も加わり、形もいろいろ工夫されて多くの種類が使われています。現在のような消費者の選択が多様化し、多品種少量の商品が自由に多角的に流通する時代には、必然的に多品種少量生産が求められます。折箱は、製造段階で木型や金型を必要とせず、必要な量だけを作ることが出来ます。現在のような、もの余りの時代には環境に優しいぴったりの容器といえます。さらに、地球環境に優しいエコロジーを重視した素材も新たに開発されています。